文章を書ける事に憧れた人のブログ

文章力を上げる為に1ヶ月1回と考え、2018年は12個何か描く

自信が無い。とてつもなく。

自信が無い。とてつもなく。
生きる事に対する自信が毛程も無い。

 

取り柄があるわけでも特技があるわけでもなく、
でも欲しいからと色々手を出すが大体60%ぐらい出来るようになった時点で0%の何も無い状態を拭えた気になる。
そこからは60%でしかない技術とそこでの人間関係を同じく60%ぐらいの力でダラダラ続ける。
そしていざ100%が必要な時に出し方が分からず60%を100%に見せるようにして誤魔化す。

付け焼刃の100%は失敗に終わり、60%あった自信は良くて半分悪けりゃ0%に戻る。
繰り返すうちに60%ですらどうせ0%に戻るからと身に付けるのが億劫になる。

自信がある人は100%出せなかったとしても60%も出来たと自分を褒める。
そもそも40%出来なかった事が眼中に無い。
そして61%出来た時の1%を尋常じゃないぐらい褒めちぎる。
私はそれが羨ましい。自信の無い私にとって100%が出来なかった事は0%と同じだ。
前より1%出来たとしても「×0%」なので無価値に感じてしまう。

自信がある人の「出来なかった事が眼中に無く、1%を褒めちぎる」所を
頭では分かっている。行動にも移してはいる。
どうしても心がついていかない。私は私に価値を上手く付ける事が出来ない。

 

人間関係もそう、私は自分の価値を上手く計れる人の足枷になりたくない。
間違った情報を与えて混乱させたくないし、相手の価値の根幹となっている部分に触れて傷つけたくないし、自分の自信の無さを見てそこまで考えなくてもという不快な思いもさせたくない。

人は間違う、主張もころころ変わる。
混乱させたら解けばいいし、傷つけたら謝ればいいし、不快にさせたら離れる事を選ばせれば良い。

分かってはいる。
それでも価値の無い私が相手に考えたりする手間を取らせる事自体がプレッシャーに感じてしまう。
この文を書いている間も最初の方と主張が変わっているんじゃないかとビクビクしている。

 

きっとこの感覚を抱えているのは私だけではないのだろう。
「己の価値とは」を複数人で書いて混ぜて神経衰弱をしたらペアが出て余りあるぐらい
人の価値というのは似たり寄ったりで上手・下手という程度ぐらいの差しかない。

自身がある人はこのカードをたくさん書く事が出来る。
似たり寄ったりだとしても自分を形成している物だからと。

自身が無い人間は1枚を絞り出す。
似たり寄ったりの価値は自信が無い自分を誤魔化す為装備だ、己の価値ではない。
今もこうして自信の無い自分を肯定する事で「自信が無い」という価値をつけようとしている。

自信が無い。とてつもなく。
そこに価値を見出したいと思うぐらいに。

私とお酒と駅のホームに打ち上げられたワカメ

どうしようもない酒飲みはどうしようもない酒飲みを呼ぶ。
言うなれば呼び水ならぬ呼び酒というやつだ。

 

日曜の昼さがりから一人でぶらぶらと飲み歩いた私は電子カードにチャージされた交通費を残し無一文の状態で帰りの電車に揺られていた。

明日からまたヒトモドキを5日間も演じなくてはならない、演じるだけならまだしもサブクエストの仕事もきっちりこなさなきゃいけないなんてこの人生とかいうゲームはゴールも勝利条件もグジャグジャだしホントゴミ、開発者が7日なんかで世界を作ろうとするからだ、と現実から飛躍してみたものの迫り来る月曜に心は勝てぬまま最寄り駅のホームについた。


さっさと帰って寝よう、いっそ私が寝ている間急に布団が命を得て驚いた勢いで私を絞め殺してくれればいいのにと更なる逃避を重ね歩くと足が何かにぶつかった。

 

ワカメだ。
海で打ち上げられたようなワカメが私の足に絡み付いている。

 

よく見るとそのワカメからは細く白い手が生えていた。
ワカメにしてはセンスの良いネイルをしている。
そしてよくよく見ると足まで生えている。
恐る恐るワカメをめくると泣きと酔いでドロドロになった顔が出てきた。

仮にも都内からアクセスの良い人通りがある駅のホーム、
このままではこのワカメは私のような不注意人間の餌食になるだろう。
自責の念もありひとまずベンチに移動させ目を覚まさせる為に自販機で水を買い、満を持して話しかけた。

 

「大丈夫ですかー?」
「ダジョブジャナイ・・・」

 

大丈夫みたいだ。

 

買った水を渡すと
「えーうそーほんとじゃーん ありがとー今優しさちょーしみるー」
というボケツッコミを披露しながらワンワンと泣き出してしまった。

 

話を聞くとどうやらフラれたらしい。

 

すごくすごく好きでつきあえて会えない日もあったけど
会えた日はすごくやさしくしてくれたから
今日は誕生日だしってプレゼント渡したいから
会いにいったら別の子いてあたままっしろだし
なにいったかとかいわれたかとかわかんないけど
もうクソ、あいつもだけど私もクソ、
なんで好きだったのかわからないのに今めっちゃ涙出る
涙腺いらない、ほんとやだ

 

相手の誕生日プレゼントが入っているという紙袋を弄りながら酒でも晴らし切れなかった鬱憤をこれでもかと吐き出した。

 

水につけた途端吐き出すとか、お前ワカメじゃなくてアサリだったのか。

 

酔ってふやけた頭はそんな的外れな事を考えつつも、その素直に悔しがるまっすぐさは、ただ月曜が嫌というだけで自分をダメにした身としてはキラキラと眩しく羨ましかった。

君は良い子だもっといいやつがいる、そうは思うものの酒で箍の外れた口はとても素直に感想を吐く。

 

「はぁ?ゴミ野郎じゃん」

 

そこからの駅のベンチはワカルワカルのオンパレード。
知性も理論もあったもんじゃない、ただ水につけられたアサリが二つドッサリと砂を吐き出すだけの場所となった。

 

吐き出してすっかり元気を取り戻したワカメと共に改札へ向かう。
夕日が良い具合にさしている。後ろから見て逆光の私たちはなんか良い感じになっているであろう。ドラマとかのOPに使われたり、PVで使われるようなあれみたいな。

 

最早思考ですら指示語だらけのふやふやな頭のまま改札に電子カードをかざす。
突如けたたましく鳴る警告音。

 

水を買った分で足りなくなったチャージ額に目を見開き固まる私を見て全てを察したのか「ギャハハハ!!!!!!ダッッサ!!!!!!」とワカメは笑い自分の財布から1000円出してくれた。

 

この察する力と気の回し方。逃した魚、めちゃくちゃでかいぞ。

 

その後、誕生日プレゼントだった財布を質屋に入れたからこれで飲みに行こうと連絡があった。その時までに1000円と恋愛成就のお守りでも用意していこうと思う。

罪の告白

何かが好きと言った時、いつからかと問われるとハッキリとは返せない事が多い。

そんな私にも1つだけハッキリといつから好きかと言える物がある。

 

ペットボトルから水を早く出したい時、そのお尻側を円を描くように回し中に渦を作ると空気が取り込まれやすくなり出るのが早くなるというのは知っているだろうか?

私はこれを母の夕飯の手伝いの時に発見し、助かると褒められた事がある。ペットボトルから少し早く出した水で作られた味噌汁は、美味しさ100倍マンゾクマンだった。


とても単純だった私はそれ以来、渦の形を描く物体が好きになった。

新体操のリボン。
風に巻き上げられる木の葉。
上から眺める螺旋階段。

渦を巻く物を見かけるたびにあの日褒められた事を思い出した。


あんな事を発見してしまう自分は天才だ、もっと凄い渦を見つけてやるとその日から私は小さな研究者となった。そんな駆け出しの研究者はある日、研究の為に罪を犯す事となる。


それは毎朝駆け込むトイレから始まった。

 

いつものように用を足しトイレを流す。するとどうだろう、大量に貯められた水がぐるぐると大きな渦を描いて穴に飲み込まれていくではないか。

これぞ私が探していた渦ではないかと再び流そうとした時、ふと「節水にご協力ありがとうございます」の張り紙が脳裏を掠めた。用も無いのに水を何回も流すのは「してはいけない事」だと分かるようになっていた私は泣く泣くトイレを離れた。

 

その日から他に似た渦が無いかの探求が始まった。

 

まずはキッチンの排水溝。
これはあまり渦を描かない上に監視の目がある。
洗面所と風呂の排水溝は貯めれば渦を描くが排水溝自体の直径もあり、トイレと比べるとその渦は私を満足させるには至らなかった。

 

トイレでないとダメだ。
そして朝の一回だけでは私の研究欲を満たせない。
何より異物の無い状態の渦をこの目で確認したい。

 

してはいけない事だとは分かっている。だがそもそも節水に協力している人間はいるのだろうか。

 

私はしてはいけない事を犯す人を幾人も見てきた。
例えば車の通りが少ない歩道での信号無視。
例えば電車で必要としてそうな人に席を譲らない事。


守ったところで誰も褒めはしない。守らなかったところで誰も咎めはしない。

 

してはいけない事をし、罰せられなければそれは何になるのだろう。
どんな人もそんな罪以下のしてはいけない事を積み重ね、日常として処理しながら生きている。そして日々処理されていく物であるならば、それはきっとこの渦を巻き飲み込まれていく水が如く忘れ去られる事柄ではなかろうか。

 

言い訳は罪の意識という箍を外すには十分だった。

トイレのレバーを握る。
沸き始めた罪の意識を黙らせる為「私は用を足した」と心の中で唱える。
回した際に発せられる金属の摩擦音が私を咎めている気がしたが、もう遅い。
静かに、ただしっかりと人の口を塞ぐように両手でレバーを握り黙らせた。
レバーがつっかえ、後少しでトイレが流れる事が伝わる。
緊張と、罪の意識を吐き出すように一気に押し込んだ。

 

トイレ内に轟音が響く。
レバーを両手で黙らせたまま、己の二の腕越しに流れる水を観察した。

 

鉄球を当てられた壁が如く大穴を開けられる水の塊。
その大穴の周りから崩れていく水の柱。
最後はその柱が斜めに倒れ螺旋を描き吸い込まれていく。
筋となった螺旋を消すかのように新たに貯められる水、水、そして水。

 

実験を成し遂げた歓喜に思わず口の端が上がる。
小躍りしたい気持ちを抑えようと水を覗き込んでいるとトイレの外の音がハッキリと聞こえてきた。


母があの日のように夕飯を作っている。
小気味良い包丁の音がトン、トンと迫ってくるような気がした。

 

私は何をしてしまったんだろう。
母の役に立ったはずの渦を見つける行為がたった今咎められる物となった。

 

轟音を立て水を飲み込んだトイレの穴が静かに私を見つめてくる。
もう私には一飲みで水塊を食らった魔物にしか見えなかった。

 

急ぎトイレからキッチンに駆け込み、その日は罪を滅ぼすように夕飯の手伝いをした。

 

翌朝、いつものようにトイレに行く。
手を合わせ「ちゃんと用を足して水を流します」と心の中で唱える。
トイレは何も話さない。足された用をいつものように飲み込んでいくだけだ。
水を飲み込む時に出来る渦も最初に見つけた時のまま、トイレは罪の意識と用だけ流していった。

 

あの日以来、用も無くトイレを流す事はしていない。
そして渦の形を描く物が好きという気持ちは変わらないままだ。
季節外れの猛暑に負けて買ったソフトクリームを眺めながら、改めて好きな気持ちを思い出すと共に処理された日常を告白する。

今週のお題「おかあさん」

妹の寛容さに感謝しろ。

私には寛容な妹がいる。

 

寛容であるからどうしようも無い姉の私と仲良くしてくれている。

まだ生まれて間もない頃、妹を喜ばせようと大量に捕まえたオニヤンマを家に放ち親戚一同が戦々とする中妹だけは笑ってくれた。

幼稚園の頃、私の美容院ごっこに付き合った結果母が悲鳴を上げるような髪形にされたにもかかわらず妹はケロリとしていた。

小学生の時、妹は始めての遠足に持っていったおやつの最後の1つを「お姉ちゃんも食べたかったんでしょ?」と持ち帰って来た。

思い返せば思い返す程姉の私がただダメなのが浮かび上がったので割愛する。


寛容であるから時間と言う物に頓着しない。

毎朝けたたましい目覚ましをもろともせずに眠り続ける。

出かける時は大抵待たされる。

次からは1時間前の時間で伝える事にする。

 

寛容であるから時々容姿を弄られる。

決して悪いわけでは無い、ただ弄っても許されると分かっているから皆弄る。

目が細いとか鼻が丸いとか。

なんの基準かも分からないがそういって弄る事が楽しいのだろう。

妹は流行の中で自分がしたいファッションをするのが凄く上手だ。流行っている物は取り入れるが流されたような物では無く自分が似合う物・着たい物を着る。

私はそれが羨ましい。妹は私にとってのカリスマファッションリーダーだ。

しかもこのカリスマファッションリーダーはちょっと服を貸してくれる。

 

そんな私のカリスマファッションリーダーが毎朝身だしなみを整えて姿を現しているんだ。ネイル綺麗だろ。アイラインばっちし決まっててかっこいいだろ。

妹の寛容さに感謝しろ。
 


最後に。

妹の寛容さに免じて今日言います。
一昨日はお誕生日おめでとう。
プレゼントは枕の下に置いてあります。

以上。

山田孝之になりたかった。

1月も終わる頃、大雪に見舞われるという都内では信じがたい天気予報が発表された。
雪とその景色が大好きな自分にとっては吉報だった。
普段の出勤・退勤用の装備に遊び用の靴下と手袋を鞄に詰め、念の為のニット帽もポケットに入れウキウキも抑えずに家を出た。

昼休みには雪が降り始め上層部により帰れる人は帰れと指示が出た。
まだ積もらないだろう、大丈夫だろうという人を尻目にこれは絶対積もるタイプだと確信した私はいち早く退勤、雪が降り積もっていく中帰る事となった。

最寄駅から家までの徒歩20分、ここが今日の私のライブ会場だ。
そう言わんばかりに踏まれてない箇所を踏み、
頭に積もる雪を振り払いながら坂という坂を駆け上がった。
この世の誰よりも雪を楽しんでいるという自信があった。

 

自分の家近くの空き地を駆け回る犬を見るまでは。

 

初めて雪を見たのだろう、
空から降り注ぐ輝きと同じようにその瞳を輝かせ、足元に撒かれた雪の絨毯に一歩走る度歓喜し毛に纏わりつくのも厭わず駆け回っていた。

 

いつもの精神状態なら微笑ましい犬だと笑えただろう。
動画にしたらどこぞやのSNSで映えそうだと流せただろう。

 

しんしんと心に日常生活のストレスを降り積もらせていた影響かは分からない。
朝から今か今かとウキウキしていた影響かも分からない。
自分が一番楽しんでいる物だと思っていた物を他の誰かがもっと楽しんでいる事にとてつもない嫉妬を覚えてしまったのだ。

熱量を比べる事は決して出来ない。
だがこんなにも装備を準備した私よりも毛以外はほぼ裸の犬の方が雪に祝福されているような気がしたのだ。

 

羨ましい、この雪に祝福されたい。
あの犬の方が雪を楽しんでいるなんて。
私の方が雪を楽しんでいる。

 

心に降り積もらせた嫉妬心を払うが如く大地を蹴っていた。

この時某モンスターハンターのCMを思い出していた。
「モンハンゴッコしようぜ!!」と心のワクワクを抑えきれず地を蹴り石を投げ土を掘る山田孝之のCMを。

今の私に必要なのはあの勢い、あの無心さ、あの無邪気さだ。
何かを仕掛けるわけでも無く空き地へ駆け出した私に気づいたのか、雪のキラキラと共に犬が振り返った。気づくべきだったのだ、「楽しむ」という土俵に勝敗を持ってきた時点で私の負けだったのだと。

 

「お前もパーリーかよー!!!!」と言わんばかりの犬の体当たり。


倒れこむ私の周りを「この絨毯!!マジトランポリン!!!!」と跳ねる犬。


謝る飼い主。山田孝之になれなかった私。

 

トボトボと帰宅しガスヒーターで体を温める。
スマホには帰れないという旨のメッセージが家族から入っていた。
テレビを付けると入場規制となった駅と帰宅困難者が映し出され、そして先ほど思い浮かべたあのCMが流された。


私も山田孝之になりたかった。

鼻水で窒息死してみようと考えた夜

風邪をひいた。

「物が飲み込みづらいだけ」
「寒暖差が酷かったし気圧差にもやられたのだろう」

そうたかをくくり、原因である鼻水を放置したのが全ての始まりだった。

症状が重くなり喉に張り付く粘度の高い鼻水。
出そうと咳をするも張り付いている為取れない痰。
更に出そうと咳を激しくした結果無闇に傷つけられる喉。
とどめとばかりの多忙。
喉の炎症による発熱。奪われる声。

初期段階で手を打たなかった私のミスでもあるが、
年末のバタバタと真摯に向き合った私に対してあんまりな仕打ちじゃなかろうか。

深夜2時半、休息を求める体と反比例するが如く流れ出る鼻水。
その結果出来た痰を窒息しないよう吐き出しながらふと思い至った。

「もう窒息してもいい、とにかく深い眠りにつきたい」と。

鼻くそだけにヤケクソだったのだろう。
ああ、クソの流れのように おだやかに。

発熱と酸素不足で朦朧とする意識には
クソによる窒息死がとても良いアイディアに思えたのだ。

 

思えば幼い頃から「死」という感覚に対して興味があった。

幼い頃のある日、寝起き一発目に飛び込んてきた
朝日に照らされた室内灯のスイッチ紐に括られたぬいぐるみに恐怖を感じた。

そのぬいぐるみは私が引き、共に常夜灯の下床に就いたはずなのだ。
しかし外は常夜灯が必要無い程にその光度を変化させ、
ぬいぐるみはその恩恵を受け燦燦と輝いているのに対し、
私はそれを知る由も無く懇々と眠りについていた。

私の感覚だけはこの世には無かったのだ。

「これがきっと死なのだろう」と幼心ながらに感じ、自分の知らない事が存在する事に恐怖した。
そして、無謀にもその幼心は「『知れば』怖くなくなるのでは」という仮説を立てたのだ。

お化け屋敷もどのタイミングで脅かし役が出るのか、知っていれば怖くない。
お母さんに怒られるのは怖いが、事前に回避するような行動を取れば怒られない。

仕組みを、構造を、状態を知れば怖くないと考えたのだ。

それ以来映画の死体の真似をする死体ごっこをしてみたり、
風呂に潜り無音と闇の状態を死に見立ててみる年月を過ごした私にとって
鼻くそによるおだやかな窒息死はとても魅力的に思えたのだ。

 

薄れていく意識の中、死を間近にした人はどういう行動をとるべきかを考えた。
映画では過去を思い返したり、やりたかった事を悔やんでいたり、思い人に告白したり様々だ。

せっかくなら全てを網羅しよう、それでこそ長年知りたかった死ぬ前の状態だ。

今日の私は冴えているぞと早速やりたかった事から考え出した。

「クリスマスネタ、書き終えなかったなぁ」
「あの表情だけは描きたかったな」
「あ、そういえばこのセリフも入れたかったんだった」
「あ、今思い当たったセリフめっちゃいいな」
「めっちゃいいな」
「めっちゃいいじゃん」
「ちょ、おまそれ、ま
ちょっと待って!!!!!!!!

 

冴えた結果出てくるネタに布団を飛び出すオタク。
結果、長年に渡り待ち望んだ死を待たせる形となった。

オタクでよかった。

ダメー・オッターと北の大地のヤッホータイ ~人生二回目のモーニング娘。単独公演編~

2013年後半から徐々にハマり在宅を極め、友人や妹のありがたい手配でようやく重い腰をあげ単独ツアー初参加となった2016年秋。

初参加となる横浜公演の数日前、推しのまーちゃんこと佐藤優樹さんの地元凱旋公演チケットを取ってくれた友人から連絡が来る。


「ねぇ!!!見て!!!!」


「最前!!!!!!!!!!!!」

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